LOGINタクシーを降りたのは、朝の六時を少し過ぎた頃だった。
初夏の空はもう白み始めていて、美奈子は昨夜のドレスの上にトレンチコートを羽織っただけの格好で、マンションのエントランスに向かって歩いていた。足取りは軽いのに、どこか後ろめたい。 まるで高校生が門限を破って帰ってきたような、そんな感覚が胸の奥にあった。 ――昨夜、あのBARで初めて会った時の碧の笑顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。 二十歳も年下の青年に、こんな気持ちにさせられるなんて。四十四にもなって、まるで恋を知ったばかりの少女みたいだ。 エレベーターを降り、玄関の鍵を開ける手が、少しだけ震えた。 物音を立てないよう、そっとドアを開く。 リビングの明かりが、ついていた。 「……ただいま」 小さな声で言いながら靴を脱いでいると、ソファの方から声が飛んできた。 「おかえりって言えると思う?」 結愛だった。制服のまま、ソファに膝を抱えて座っている。 目の下にはうっすらとクマができていて、スマホの画面には見覚えのあるSNSのタイムラインが表示されたままだった。 「結愛……お泊まり会は?もう学校あるでしょ、早く寝な――」 「寝れるわけないじゃん...連絡もつかないし! 何からあったのかと思って抜けてきた!」 結愛の声は、刃物のように鋭かった。 「お母さん、朝帰りだよ? 分かってる? 高校生の娘がいる家の母親が、朝の六時に帰ってくるって、どういうことか分かってんの?」 「それは……」 「年甲斐もなく、朝帰りとかやめてよね!!」 その一言が、美奈子の胸に深く刺さった。 反論できない。事実、その通りだから。 美奈子は玄関先に立ち尽くしたまま、コートの袖をぎゅっと握った。昨夜の高揚感が、急速に冷めていくのが分かる。 「ごめんなさい......心配かけたね」 「心配とかそういう次元の話じゃなくてさ」 結愛は立ち上がり、キッチンの方へ向かいながら、背中越しに言った。 「誰と一緒だったの」 問いというより、確認だった。 まるで、答えをすでに知っているような口ぶりで。 美奈子は言葉に詰まった。 碧のことを、どう説明すればいいのか。二十歳年下のアイドルと、BARで出会ったその日のうちに一晩過ごしたなんて、口が裂けても言えない。 少なくとも、今は。 「……友達と、飲みすぎちゃって。そのまま友達の家に泊まったの」 我ながら、下手な嘘だと思った。 結愛は振り返らずに、コップに水を注ぎながら言った。 「そう。なら、いいけど」 信じていないのは明らかだった。けれど、それ以上追及してこないことに、美奈子は逆に不安を覚えた。結愛は昔から、そういう子だった。 本当に怒っている時ほど、静かになる。 リビングの空気が、重く沈んでいく。 美奈子はコートを脱ぎ、ソファに座った。 結愛も、少し距離を置いて隣に腰を下ろす。 二人の間に流れる沈黙は、いつもより長く感じられた。 「ねえ、お母さん」 結愛が、ぽつりと口を開いた。 「覚えてる? あの約束」 美奈子の心臓が、ぎゅっと縮んだ。 覚えていないはずがなかった。忘れたことなど、一度もない。 「……覚えてるわよ」 「なら、なんでこんな軽率なことするの」 結愛の声が、少しだけ震えていた。 怒っているのではなく、怖がっているのだと、美奈子は気づいた。 「私、お母さんがまた誰かに傷つけられるのが、一番怖いんだよ」 その言葉に、美奈子の目頭が熱くなった。 結愛がまだ五歳だった頃のことを、思い出す。 ーーー 美奈子の元夫、白石浩之(しらいし ひろゆき)は、結婚した当初こそ優しい人だった。 けれど、結愛が生まれてから少しずつ、その本性が顔を出し始めた。 最初は些細なことだった。 美奈子の作った料理に文句をつける。 「お前の実家はこんな躾もできないのか」と、両親を貶す言葉を吐く。 友人と出かけようとすれば、「誰と会うんだ」「何時に帰るんだ」と、まるで尋問のように詰め寄られた。 直接手を上げられたことは、一度もない。 だからこそ、質が悪かった。 浩之がやったのは、言葉で少しずつ、美奈子の自信を削り取っていくことだった。 「お前は何をやらせてもダメだな」 「誰がお前を養ってやってると思ってるんだ」 「お前みたいな女、俺以外に誰が相手にする」―― そんな言葉を、まるで愛情表現かのように、日常的に浴びせ続けた。 美奈子は次第に、自分の意見を言うことが怖くなっていった。 何を言っても否定される。 何をやっても足りないと言われる。 鏡を見るたびに、自分がどんどん小さくなっていくような感覚があった。 転機になったのは、結愛が三歳の誕生日を迎えた日のことだ。 誕生日ケーキを買ってくるのを忘れた美奈子に、浩之は結愛の前で怒鳴った。 「お前は母親失格だ」 「こんな簡単なことも覚えられないのか」―― 結愛は驚いて泣き出し、それを見た浩之は舌打ちをして、その場を立ち去った。 残されたのは、泣きじゃくる娘と、震える手でその小さな体を抱きしめる美奈子だけだった。 その夜、美奈子は初めて、はっきりと理解した。 ーーこのままじゃ、結愛まで壊れてしまう。 そこから離婚を決意するまでに、二年かかった。浩之は簡単には離婚に応じなかった。 「お前一人で育てられるわけがない」 「結愛がかわいそうだと思わないのか」―― そんな言葉で、何度も心を折ろうとしてきた。 それでも美奈子は、弁護士に相談し、少しずつ証拠を集め、実家の助けも借りながら、静かに、けれど確実に、離婚への道を進んでいった。 結愛が五歳になる年、ようやく離婚が成立した。 ーーー 「あの日、覚えてる?」 結愛の声が、美奈子を回想から引き戻した。 「離婚が決まった日、お母さん、私を抱きしめて言ったよね。『もう二度と、結婚しない』って。『結愛だけを守って生きていく』って」 「……うん」 「私、あの約束があったから、ここまで頑張ってこれたんだよ。お母さんが一人でどんなに大変でも、私たちには”約束”があるから大丈夫だって、そう思ってた」 結愛の目に、涙が滲んでいた。 「なのに、朝帰りとか……男の人と何かあったんじゃないかとか、そんなこと考えなきゃいけないの、すごく嫌」 「結愛……」 「別に、お母さんが恋愛しちゃダメとは言わないよ。まだお母さん若いし、それは分かってる。でもさ」 結愛は、震える声を絞り出すように言った。 「また、あんな思いするのは、絶対に嫌だから!」 美奈子は、何も言えなかった。 ただ、娘の小さな肩を、そっと抱き寄せることしかできなかった。 「ごめんね。ごめん、結愛」 「謝ってほしいわけじゃない!」 結愛は、美奈子の腕の中で、小さく首を振った。 「ただ、心配なだけ...」 その言葉に、美奈子の胸が締め付けられる。 娘に心配をかけている自分が、情けなかった。 碧との時間がどれほど幸せだったとしても、 それが結愛を傷つけているのなら―― いや、と美奈子は思い直す。 まだ結愛には、碧のことを何も話していない。今、感じている葛藤は、あくまで美奈子自身の中にあるものだ。「本当よ...お母さんが臆病なばっかりに結愛に嫌な思いをさせてごめんね。」美奈子は、結愛に笑顔で言葉を返す。美織の取り巻きの女性が美奈子の前に乗り出す。「こんなおばさんが碧くんの招待ですって!最近、多いのよねー。ファンのおばさんが興信所とか頼って、ストーカーまがいな真似しちゃってさ」「あなたたちもその悪質ストーカーなんじゃないの??。こんな歳にもなって...娘さんも連れて恥ずかしくないの??お、ば、さ、ん」いやみたらしい表情で美奈子に詰め寄る。「......そんなことは、ありません。私はちゃんと碧くんから直筆でご招待いただきました。」美奈子は、下唇を噛みながら、でも結愛に心配はかけまいと平然とした表情で言葉を返す。「碧くんから手紙って??妄想もいい加減にしなさいよ。まして、美織の前でさ!!美織と碧くんは互いに想い合ってるのよ。」他の取り巻きが言葉を続ける。「そうよ。この前のLive配信も感動したわーきっと美織に正式な交際を申し込むために作ったラブソングよね。」取り巻き達が騒ぎ出すことで、美織と美奈子達の周りに人だかりが出来る。「いい加減さ、夢見る乙女にはもう遅いでしょ?恥をかく前に帰りなさいよ。」「帰れ!帰れ!...」この場所に来た決意が、揺らぐぐらいの周りからの罵詈雑言。隣で怯える結愛の表情を見て、後悔と申し訳なさと逃げ出したいという感情が襲う。さすがに、もう無理だ。美奈子は結愛を連れて帰ろうとしたその時...取り巻きが美奈子に声をかける。「ちょっと待ちなさい!先ほどから話してるネックレス?が不快だわ...碧くんのメンバーカラーと同じデザインなんて、こんなおばさんには似合わない。外しなさいよ!!」美奈子は、ネックレスのトップを守るように掴む。「申し訳ないですが、これは外せません。」焦る表情をする美奈子...すると悪どい顔をした取り巻き達が、結愛と美奈子を囲み出した。そして悪びれもなく美奈子を掴みかかる。「やめて!っ...お願いだから!...これだけは!」取り巻きの一人が叫ぶ。「うるさい!碧くんに迷惑よ!この悪質ストーカー!さっさと外しなさいよ!」美奈子は必死に抵抗する。その時、抵抗していた美奈子の頭が取り巻きの顔に激しく当たってしまう。「痛っ!」と聞こえたとともに取り巻
美織の声に、会場の空気が張り詰めた。「あら?招待客リストにお名前ありました? ……失礼ですが、どちら様で? 道に迷われているなら係を呼びますわよ。ふふっ」美奈子は何か言葉を返そうとしたけれど、喉の奥が急に渇いて、声にならなかった。 手のひらに、じわりと汗が滲む。 視線が、自然と俯きがちになる。(碧……)胸元のネックレスに、無意識に手が伸びかけて――結愛の視線に気づき、慌てて止めた。隣にいる結愛が、怪訝そうにこちらを見上げる。 最初は、ただ状況が飲み込めていない様子だった。 きれいなお姉さんに話しかけられている。それだけの、他愛のない出来事のように。けれど、美織の口調に滲む嘲りと、母が何も言い返せずに縮こまっている様子を見比べるうちに、結愛の表情が、少しずつ変わっていった。(お母さんが、何も言えないでいる……) (この人、なんでこんな言い方するの……?)小さな違和感が、胸の中で膨らんでいく。 結愛にとって、母はいつも自分を守ってくれる人だった。 仕事で疲れていても、笑顔を絶やさない人だった。 それが今、見知らぬ人の前で、言葉を失って立ち尽くしている。その光景が、結愛の中の何かに火をつけた。「――失礼ですけど」気づけば、口が勝手に動いていた。美奈子の腕に、自分の手をぎゅっと絡める。 真っ直ぐに、美織を見上げた。その目には、怯えなど微塵もなかった。「うちの母、ちゃんとお友達さんから招待されてここに来ました。 ネックレスも受付で見せましたし、何か問題でも?」凛とした声だった。子供らしい丸さの残る声なのに、芯だけは真っ直ぐに通っている。美織の目が、わずかに見開かれた。 周囲の取り巻きたちの間にも、小さなざわめきが走る。「……あら。娘さんもご一緒だったのね」「はい。娘です」結愛は、臆することなく答えた。美奈子はただ、隣でその横顔を見つめることしかできない。 心臓が、痛いくらいに脈打っている。(結愛……)守られているのは、自分のはずなのに。 いつの間にこんなに強くなったのだろう。 嬉しさと、申し訳なさが、同時に胸を締め付けた。美織は、しばらく結愛を観察するように見つめたあと、ふっと笑みを浮かべた。 作り物めいた、綺麗な笑み。だがその奥に、ほんの一瞬――苛立ちにも似た何かが揺れたのを、美奈子は見逃さなかった。
背の高い、優しそうな雰囲気の男性だった。 結愛が警戒した表情を見せると、男性は慌てたように封筒を差し出す。 「怪しいものじゃないよ。これ、お母さんに渡してほしくて」 白い封筒。表には丁寧な文字で「美奈子様」とだけ書かれている。 「……お母さんの、知り合い?」 「うん。仕事の関係でね。ちゃんと本人から渡してって頼まれたものだから、安心して」 男性はそれだけ言うと、軽く会釈をして去っていった。 結愛はしばらくその後ろ姿を見送りながら、封筒を制服のポケットにしまった。 (誰だろう。お母さん、こんな綺麗な字を書く知り合いいたっけ) なんとなく胸がざわついたけれど、結愛はそれ以上深く考えないことにした。 夕方、仕事から帰ってきた美奈子を、結愛が玄関で待ち構えていた。 「お母さん、おかえり。今日ね、学校に向かうところで男の人に呼び止められて」 「男の人?」 美奈子の表情が一瞬、強張る。 「お母さんの知り合いだって。これ、渡してって」 差し出されたのは、白い封筒だった。 見覚えのない筆跡。 けれど、なぜか胸の奥がざわりと音を立てる。 「ありがとう、結愛。手、洗ってきなさい」 「はーい!わかった」 結愛が洗面所に向かうのを見送ってから、美奈子はリビングのソファに腰を下ろした。 封筒を裏返す。差出人の名前はない。 ただ、封を切った瞬間、ふわりと香った紙の匂いに、なぜか覚えがあるような気がした。 中から出てきたのは、便箋と――小さな箱。 便箋を開くと、少し丸みを帯びた、けれど几帳面な文字が並んでいた。 『急なお手紙すいません。 美奈子さんにもう会えないとメッセージをいただいてから、美奈子さんに僕の覚悟を知ってほしくていろいろと準備をしました。 今度、僕らのアルバムリリースを記念したパーティーをする予定で…… 是非、娘さんと二人で参加して欲しいです。 僕の特別なお客様だから、とスタッフには説明しているので、一緒に入れたネックレスを受付に見せてください』 美奈子の手が、止まった。 (碧……) 心臓が、大きく跳ねる。 震える指で、小さな箱を開ける。 中には、トップにアクアマリンをあしらった、上品で可愛らしいネックレスが収まっていた。 碧の瞳の色を思わせる、澄んだ水色。 「碧ったら、そんな無茶な……」 呟いた声は、思っ
「聴いてください... On My Way to Cinderella」ーーー♪♪♪On My Way to Cinderella雨上がり 君を見つけた夜少し寂しそうに笑ってたね誰かのために生きてきた時間を隠すようにグラスを揺らしてた「もう恋なんてしないから...」その言葉の奥にある涙を僕だけは見逃せなかったーーー♪♪♪(優しく指を弾くギターの弦から流れる音色に碧の優しさが、心に響く...)時計の針は戻せなくても未来なら変えられるから君が閉じたその心のドアを焦らず 何度でも叩くよ(ステージ上がライトアップされて、翠はこちらをみているように画面を見つめている)ーーー♪♪♪On My Way to Cinderella今日、僕は君を迎えに行くガラスの靴なんていらない君のその笑顔だけあればいい幸せになる順番なんて誰にも決められないから遅すぎる恋なんてない君は今でも僕だけのシンデレラーーー♪♪♪(「俺、一夜限りのつもりで、昨日美奈子さんを誘ったわけじゃないんです」あの時、碧が話していた決意が目の前にいや、世界中に流れている...私なんかのために...今は、勘違いでも良い。そう感じていた。)「一夜限りの綺麗な思い出...」震える声でそう言ったねその優しさも その強さも全部抱きしめたいと思った君が誰かを守るように今度は僕が君を守りたいーーー♪♪♪時が君を連れて行って忘れることなんて出来やしない会えない時間だけが君への決意を僕にくれた。もしこの歌が届くならもう一度だけ君に笑ってほしいーーー♪♪♪On My Way to Cinderella今日も僕は君を迎えに行く魔法なんてなくてもいい君と歩く明日があれば時計が零時を告げたってこの恋は終わらせない“もう幸せになっていい”そう伝えるために今日、僕は君を迎えに行くOn My Way to Cinderellaーーー♪♪♪曲が終わり、碧が照れながら笑顔で言う。「聴いてくれてありがとうございます」美奈子の頬には、静かに涙が伝っていた。それを見てびっくりしている結愛。「お母さん!どうしたの!そんなに感動した!?」「いや...違うの...ごめんね。」無理に笑おうとするけど、涙が止まらない。その涙は、碧を信じ
結愛を抱きしめながら、美奈子は自分の心の中に、静かに芽生え始めていた感情の存在に、改めて気づかされていた。昨夜、あのBARのカウンターで、隣に座った碧が屈託なく話しかけてきた瞬間から、何かが変わり始めていた。あの出会いは、あの”約束”を揺るがすものになりつつある。それが、幸せなことなのか。それとも、また同じ過ちを繰り返すことになるのか。美奈子には、まだ分からなかった。「……ちゃんと、朝ごはん作るね」しばらくして、美奈子はそう言って立ち上がった。これ以上、この話を続ける気力が、今はなかった。「学校行く準備、していいよ」「……うん」結愛は小さく頷いて、自分の部屋へと戻っていった。一人になったリビングで、美奈子はキッチンに向かいながら、スマートフォンをちらりと見た。碧からのメッセージが、一件届いていた。『美奈子さん、早速メッセージ送ってみました。昨日はありがとう。また会えますか』その短い文面を見つめながら、美奈子は深いため息をついた。ーーーどうすればいいんだろう。答えの出ない問いを胸に抱えたまま、美奈子は包丁を手に取った。娘のために、いつも通りの朝食を作るために。朝食を終え、結愛を学校へ送り出した後。一人になったリビングで、美奈子はスマートフォンを手に取った。画面には、まだ既読のついていない碧からのメッセージが表示されたままだった。『美奈子さん、早速メッセージ送ってみました。昨日はありがとう。また会えますか』何度も読み返した文面。昨夜は、この言葉に胸を弾ませていたはずなのに。今はただ、重たい石を飲み込んだような気分だった。結愛の顔が、脳裏に浮かんでは消える。 ーーまた、あんな思いするのは、絶対に嫌だから!美奈子は深く息を吸い、ゆっくりと文字を打ち始めた。『昨日はありがとう。楽しかった、本当に。でも、今朝帰ってから、娘にすごく怒られちゃって』打っては消し、打っては消しを繰り返す。素直に書こうと決めたはずなのに、指先がなかなか進まなかった。『高校生の娘がいるのに、朝帰りなんて、って。当然だよね。ちゃんと考えなきゃいけないことを、私、忘れてた』一度、深呼吸をする。ここから先が、一番言いたくなかった言葉だった。『碧くんのことは嬉しかった。本当に。でも、私にはもう、娘との約束があるの。誰かとまた一緒にいるってこと、簡単に
タクシーを降りたのは、朝の六時を少し過ぎた頃だった。初夏の空はもう白み始めていて、美奈子は昨夜のドレスの上にトレンチコートを羽織っただけの格好で、マンションのエントランスに向かって歩いていた。足取りは軽いのに、どこか後ろめたい。まるで高校生が門限を破って帰ってきたような、そんな感覚が胸の奥にあった。 ――昨夜、あのBARで初めて会った時の碧の笑顔が、まだ瞼の裏に焼き付いている。二十歳も年下の青年に、こんな気持ちにさせられるなんて。四十四にもなって、まるで恋を知ったばかりの少女みたいだ。エレベーターを降り、玄関の鍵を開ける手が、少しだけ震えた。物音を立てないよう、そっとドアを開く。リビングの明かりが、ついていた。「……ただいま」小さな声で言いながら靴を脱いでいると、ソファの方から声が飛んできた。「おかえりって言えると思う?」結愛だった。制服のまま、ソファに膝を抱えて座っている。目の下にはうっすらとクマができていて、スマホの画面には見覚えのあるSNSのタイムラインが表示されたままだった。「結愛……お泊まり会は?もう学校あるでしょ、早く寝な――」「寝れるわけないじゃん...連絡もつかないし!何からあったのかと思って抜けてきた!」結愛の声は、刃物のように鋭かった。「お母さん、朝帰りだよ? 分かってる? 高校生の娘がいる家の母親が、朝の六時に帰ってくるって、どういうことか分かってんの?」「それは……」「年甲斐もなく、朝帰りとかやめてよね!!」その一言が、美奈子の胸に深く刺さった。反論できない。事実、その通りだから。美奈子は玄関先に立ち尽くしたまま、コートの袖をぎゅっと握った。昨夜の高揚感が、急速に冷めていくのが分かる。「ごめんなさい......心配かけたね」「心配とかそういう次元の話じゃなくてさ」結愛は立ち上がり、キッチンの方へ向かいながら、背中越しに言った。「誰と一緒だったの」問いというより、確認だった。まるで、答えをすでに知っているような口ぶりで。美奈子は言葉に詰まった。碧のことを、どう説明すればいいのか。二十歳年下のアイドルと、BARで出会ったその日のうちに一晩過ごしたなんて、口が裂けても言えない。少なくとも、今は。「……友達と、飲みすぎちゃって。そのまま友達の家に泊まったの」我ながら、下手な嘘だと思っ